
このコラムでは、未上場スタートアップを株式譲受で100%買収するケースを想定して、基本合意書のポイントについて説明します。
1.M&A取引における基本合意書の概要
M&A取引における「基本合意書」は、色々なパターンがありますが、非上場会社のM&A案件で使われる基本合意書は、典型的にはデュー・デリジェンス・最終契約締結といった本格的なプロセスに進む前に締結する、以下のような事項を定めた契約書です。この場合、この時点では案件が成立するか不確定ですので、通常、案件は開示しません。
・取引ストラクチャや取引条件(買収金額等)(法的拘束力なし)
・誠実交渉義務
・独占交渉権(相場は数カ月程度)
・秘密保持義務
なお、基本合意書にこれらの事項がすべて織込まれるとは限りませんし、これ以外の条項が定められることもあります。なお、裁判管轄など、「一般条項」といわれる、どのような契約書にも通常定められる比較的定型的な条項は、あえて上には列挙していませんが、同様に定められます。
上に列挙した条項の中で、特に定められるケースとそうでないケースに分かれるのは、独占交渉権です。また、秘密保持義務については、その前段階で秘密保持契約を締結している場合は、あえて基本合意書で重ねて秘密保持条項を合意する必要はないと考えて、省略される場合もあります。
2.M&Aプロセスにおける基本合意書の機能
(1) 一般論
このような基本合意書で特徴的な点は、取引ストラクチャ・買収金額などの取引条件を記載しているものの、法的拘束力を持たせない、という点です。なお、契約であれば原則として法的拘束力があることになりますので、法的拘束力がない部分については、その旨明記しておく必要があります。契約書の名称を「基本合意書」にしたら法的拘束力がなくなる、ということは原則としてありません。
そもそも、法的拘束力のない条項をわざわざ契約書に定める理由は何なのでしょうか。
まず、基本合意書には取引実行に向けた誠実交渉義務が定められることが多く、その場合、正当な理由なく交渉を破棄したり、基本合意書に定めた条件から理由なく逸脱し(例えば、買い手が、基本合意書では買収価格10億円としていたのに、その後理由なく買収価格5億円でないと買わない、と突如言い出した場合)、その結果、ディールが成立しなかった場合は、「契約上の過失」責任という法理で、損害賠償請求が認められる場合があるということです。なお、基本合意書で明示的に誠実交渉義務を定めていなかったとしても、締結の背景などから、解釈上誠実交渉義務が認めらえる可能性もあります。ただ、そのような損害賠償は簡単に認められるものではなく、具体的にどのような場合に認められる可能性があるのかは、後で説明します。ただ、いずれにせよ、基本合意書で取引の条件について目線合わせをし、誠実交渉義務に合意している以上、取引を進めるかどうか、全く自由に決められるわけではないとうことです。
このような目線合わせ、誠実交渉義務に合意する背景は、売り手、買い手それぞれにあります。
まず、売り手からすると、特に買い手企業が競合他社の場合、デュー・デリジェンスで開示した自社の秘密情報が、競合製品の開発などM&A以外の目的で使われるのではないかという懸念があります。このため、買い手が本気でM&Aをやろうと思っており、M&A条件についても今後交渉を進めていくことで最終合意に達しそうだという程度の目線合わせが出来ていないのであれば、自社の秘密情報を開示したくないと考えます。また、M&Aのプロセスの中で、秘密保持を徹底してもディールの情報がどこかに漏れるリスクは否定できず、とりわけデュー・デリジェンスに進むと、資料の提出や実地監査などもありますので、情報流出のリスクがそれまでの段階より高くなるといえます。売り手にとって、M&Aで会社を売ろうとしているという情報が流れると、従業員や取引先の動揺を呼ぶおそれがあり、その後ディールが破談になったことが伝わると、何か問題を抱えている(それゆえに買い手企業が手を引いた)のではないかという憶測を呼ぶ可能性があります。この観点からも、ディールの成立可能性が相応にある相手でなければデュー・デリジェンスなどのプロセスには進みたくないと考えます。
また、基本合意書の中で売り手が買い手に独占交渉権を付与することも多いですが、独占交渉権を付与してしまうと、交渉上のポジションが買い手企業優位に変化しますので、売り手としては、独占交渉権を付与する前にディールの条件の目線を合わせ、買い手企業に誠実交渉義務を課すことが重要になります。特に、営業キャッシュフローがマイナスになっていることの多い未上場スタートアップの場合は、キャッシュが尽きる前に次の資金調達やM&Aをする必要があります。独占交渉権を与えたままディールが進行しないと、どんどんキャッシュが厳しい状況になり、交渉上の立場が不利になります。
他方、買い手側からすると、デュー・デリジェンスの費用は自社で負担する必要があり、また、デュー・デリジェンスの実施自体は外部アドバイザーの手を借りるとしても、自社のM&Aチームの時間も相当割かれることになりますので、デュー・デリジェンスのプロセスに進む前に、やはりディール条件の目線合わせと誠実交渉義務の合意はして負いたいということになります。
なお、基本合意書をどのレベルの意思決定機関で決定するかは各社の社内ルール次第ですが、比較的高位の意思決定機関(最終契約書と同じかそれに近いレベルの意思決定機関)で決議されることが比較的多いですので、基本合意書の中に取引条件を書い決議を得ておく(最終契約の最終意思決定権者の目を通しておく)ことで、最終契約締結目前になって、初めてそのディールを見た取締役が取引条件に反対し、ディールが破談になる、というリスクを予め抑える効果も期待できます。なお、取締役会決議については、取締役会決議を得ると適時開示が必要になる可能性があるという理由で、決議を避けることがありますが、その場合でも、報告はすることがあります。
(2) 基本合意書でのM&A後の運営体制についての取り決め
なお、とりわけスタートアップM&Aで有用と思われるのは、M&A後のガバナンス体制(ロックアップ、取締役会の構成、子会社管理規程の適用、オフィスや社内システムの利用など)についても詳細に基本合意書に定めておくことです。スタートアップの場合、一般の成熟した子会社のように大企業の一グループ会社として管理するとその良さを損なってしまい、上手くいかないことが多いと思われます。しかし、M&Aでグループインしたスタートアップにどこまで独立性を持たせられるかは、買い手企業によって変わります。すなわち、買い手企業としては、グループインした会社を細かく管理しないことはリスクでもあるため、オープンイノベーションのためそのようなリスクを取れるのかという判断になります。このため、この点を基本合意書に入れることで、デュー・デリジェンスなど本格的なプロセスに入る前に見極めておくことは、特にスタートアップ側にとっては有益と思われます。買い手企業からみても、スタートアップM&Aにおける重要事項ですので、初期段階で目線合わせをしておくことは有益といえます。
これらの条項も、法的拘束力は持たせないことになると考えられますが、基本合意書で定めた条件は、誠実交渉義務との関係で合理的な理由なく変更することにはハードルがあるため、定めておく価値があります。とりわけ、スタートアップが売手となる場合、買い手企業に独占交渉権を付与すると、交渉上の立場がかなり弱くなりますので、基本合意書の中で、最終契約に織り込みたい主要条件ではできるだけ定めておく(そのような基本合意書が締結できないのであれば、独占交渉権を付与するのは避ける)ことが、売り手であるスタートアップ側として望ましいといえます。
3.取引不成立の場合の「契約締結上の過失責任」について
(1) 一般論
上記のとおり、基本合意書には取引実行に向けた誠実交渉義務が定められることが多く、また、明文で定められていない場合でも解釈上認められることがあります。
その場合、正当な理由なく交渉を破棄したり、基本合意書に定めた条件から理由なく逸脱し(例えば、買い手が、基本合意書では買収価格10億円としていたのに、その後理由なく買収価格5億円でないと買わない、と言い出した場合)、その結果、ディールが成立しなかった場合は、契約締結上の過失責任・誠実交渉義務違反として損害賠償請求が認められる場合があります。ただし、最終契約が成立するまでは、取引をするかどうかは、本来的には自由に判断できるものですので、損害賠償請求は広く認められるわけではなく、むしろ認められるのは例外的な場合です。
また、損害賠償が認められるといっても、「履行利益の賠償」と呼ばれる、最終契約が成立し、ディールが実行されていた場合に得られた利益の賠償が認められることはほとんどありません。そもそも最終契約が成立していないので、最終契約に基づく利益は法的な保護に値しないためです。では、何が賠償対象になるかというと、例えば、買い手から見ると、売り手が誠実に交渉してくれるからディールの成立可能性が十分あると思い、外部専門家にフィーを払ってデュー・デリジェンスを行ったが、後日急に売り手が態度を翻し、デュー・デリジェンス費用が無駄になってしまった場合に、そのデュー・デリジェンス費用の一部の賠償が認められる可能性もあるということです。あるいは、売り手から見ると、買い手候補に独占交渉権を与え、他の買い手候補のオファーを断ったが、独占交渉権を得た買い手が、基本合意書で合意した条件から離れた無茶な要求を色々してきたために、ディールがブレイクし、もう一度最初から買い手を募集せざるを得なくなったという場合に、それにより増加したコスト等の賠償ができる可能性があるということです。ただし、いずれにせよ、取引をするかどうかは、最終契約締結まで各当事者の自由ではありますので、このような賠償が認められるケースはむしろ例外的です。
(2) 過去の裁判例
以下、M&A取引で基本合意書を締結したが、ディールが不成立になったため、損害賠償を請求した裁判例をいくつか紹介します。
(i) 東京地裁2022年2月22日判決(損害賠償請求を認めなかった)
不動産、M&A、企業再生等の事業を展開するX社が、旅館等を営むA社のオーナー経営者であるY氏とA社の買収交渉をしていたものの、成約に至らなかった事案です。X社はY社に意向表明書を提出し、Y社から独占交渉権の付与を受けてデュー・デリジェンスや交渉を進めていましたが、意向表明書提出の約半年後にY氏から交渉の打ち切りを伝えられたため、X社がY氏に対して、デュー・デリジェンス費用等の損害賠償を求めて訴訟を提起しました。
この事案では、X社は、意向表明書では全株式譲受(25億円)としていながら、デュー・デリジェンスを経て事業譲渡スキーム(対価16億円前後)に提案を変更し、その後再度株式譲渡スキーム(対価17.5億円)に提案を変更しました。最初に事業譲渡スキームに変更した際は、事業譲渡でないと開発許可が得られないためと説明しており、そうすると再度株式譲渡スキームを提案した理由が明らかではありませんでした。また、対価の増減の理由の説明も、首尾一貫しないものでした。
裁判所は、X社の提案が二転三転していたことから、交渉が成熟していなかったと判断し、X社の対応に不信感を抱いて交渉を打ち切ったY氏の対応は合理的であり、違法・不当な点はないと判断し、X社の損害賠償請求を認めませんでした。
(ii) 2012年6月1日東京地裁判決(損害賠償を認めなかった)
X社(通信サービス)が、Y社(通信サービス)から出資を受けるため、「出資検討に関する基本合意書」を締結しました。この基本合意書では、X社に対するY社に対する出資比率の検討をすること、X社が独占交渉権をY社等に与えること、X社がY社のデュー・デリジェンスに協力することなどが定められました。しかし、結局Y社のX社への出資がなされなかったため、X社は、契約の成立に関する期待権を侵害したとして、デュー・デリジェンスへの協力にかかった費用などの損害賠償をY社に求めて提訴しました。
裁判所は、上記基本合意書は,あくまで出資を実行するか否かの検討をする前提として,出資比率の検討、独占交渉権付与、デュー・デリジェンスへの協力などを合意したにとどまり、出資を確約したものではないため、出資の期待を抱いたとしても法律上保護されるものではないとして、損害賠償を否定しました。
なお、X社は控訴しましたが、控訴審判決(2012年12月12日知財高裁判決)も同様に損害賠償を否定しています。
(iii) 2006年2月13日東京地裁判決(損害賠償請求できること自体は認めたものの、X社が損害を立証していないとして、実際の請求は認めなかった)
X社(銀行会社)が、Y社(銀行持株会社)との間で独占交渉権・経営統合に向けた誠実協議義務を含めた基本合意を締結したものの、Y社が独占交渉期間中に基本合意を破棄して交渉を一方的に拒絶し、他社と経営統合したため、X社が経営統合後のY社に対して損害賠償を求めて提訴した事案です。
裁判所は、X社がY社に損害賠償義務を負うことを認めました。しかし、この事案では、X社がY社との最終契約成立を前提とする損害しか主張・立証していなかったため、裁判所は、独占協議義務・誠実交渉義務違反の損害について立証がないとして、結局X社の請求は認めませんでした。
(iv) 2005年7月20日東京地裁判決(損害賠償請求を認めた)
バイアウトファンドであるX社は、X社がスポンサーとして事業再生を終了させたA社(製造業)の株式をY社(製造業)に売却しようとし、X社・Y社間で基本合意を締結し、株式譲渡契約締結に向けて交渉していました。しかし、Y社は基本合意を撤回し、株式譲渡契約の締結を拒否しました。基本合意を撤回した理由は、基本合意の中で、A社が銀行からリファイナンスを受けられることが前提条件として定められており、Y社のメインバンクからA社への新規融資が困難との回答があったため、基本合意上の前提条件が満たされず撤回するというものでした。A社は、そのままでは銀行ローンのコベナンツに抵触し期限の利益を喪失してしまうため、倒産回避のため別の出資元からの救済出資を受けることとし、当該出資元からの要求に従いX社は保有するA社株式を無償消却しました。X社がY社に損害賠償を求めて提訴しました。
裁判所は、株式譲渡契約締結にあたり最大の懸案事項であった、A社のリファイナンスの可否について、リファイナンスについて銀行と交渉していたY社が、A社がリファイナンスできることが確実であるとの根拠の乏しい情報をX社に伝えていたと認定しました。そのうえで、そのような情報を伝えられたことにより、X社が、近日中にY社と株式譲渡契約を締結できると信頼し、別の株式譲渡先や融資金融機関を探すなどの措置をとらなかったため、保有するA社株式の価値下落を防げなかったと認定し、Y社に対して、それに基づく一部の損害賠償を認めました。
このシリーズの他の記事:
1(スタートアップM&Aの特徴)
2(株式の取得方法)
3(M&A対価の分配)
4(ストック・オプションの処理)
5(法務デュー・デリジェンス)
6(基本合意書)(今回)
7(最終契約書(株式譲渡契約・運営合意))
8(段階的買収・2段階イグジット)
[ディスクレイマー]
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